A子が帰宅するのは、いつも終電ギリギリの時間だった。
都会の地下鉄駅は深夜になると人気がなく、照明の白さが逆に心細さを際立たせる。
その日も、いつも通り最寄り駅で降りたA子は、無人のエスカレーターをひとり、上っていた。
ゴウン…ゴウン…と規則正しく軋む音。
そのときだった。
トン、トン…
手すりのベルトが、小さく、一定のリズムで叩かれる感覚。
「なんだろう…」
そう思い、A子はなんとなく後ろを振り返った。
そこにいたのは、不気味なほど無表情な男だった。
目は細く、唇は歪んでいた。
その男が、こちらを見ながら、ニタァ――と、笑った。
ぞわり、と背筋が凍りついたA子はエスカレーターを駆け上がり、振り返ることもできずに家へと逃げ帰った。
翌朝、会社でA子はこの話を同僚のB子たちに語った。
「絶対に、ヤバい奴だった。なんかね、トントンって……気味悪かったの」
B子たちは怖がりながらも、笑っていた。
それが現実感を失わせ、まるで他人事のように感じさせていた。
だが――
数日後、A子は死んだ。
何者かに殺されたのだった。
帰宅途中、自宅の近くで倒れていたという。
身元はすぐに分かった。
だが、犯人は見つからなかった。
静かに、周囲からはその話題が消えていった。
それからしばらく経ったある夜。
B子もまた、深夜の地下鉄にいた。
仕事が遅くなり、最後の一本で帰路に着いていた。
最寄り駅で降り、上りエスカレーターに足を乗せる。
誰もいない。
静かだ。
だからこそ、その音がはっきりと分かった。
トン、トン…トントン…
B子は一瞬で、A子の話を思い出した。
心臓が跳ね上がり、視界がかすむ。
「まさか……」
背後が気になる。
けれど、怖くて振り向けない。
その音が、何かを語りかけているように感じる。
B子は、かつてガールスカウトでモールス信号を学んでいた。
トン・ツー、トン・トン……無意識に、意味を読み取っていた。
「ア イ シ テ イ ル ナ ラ コ ッ チ ヲ ミ テ」
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